夏の回想となりますが
お亡くなりになられた方が、年に一度下界に降りてくると言われる真夏のお盆。
不謹慎ながら、いつもこの時期になるとモヤモヤ感にさいなまれます。
長男である我が家には仏壇があります。
そして、宝塚には次男である父が建てたお墓があります。
お盆には、仏さまをお迎えにと墓参りに行きます。
墓石を洗い、墓周りの雑草を抜き、墓前に花や果物等を並べて線香に火を点けます。
合わせて、自宅の仏前にも花や果物を備え、仏様を迎える準備をします。
で、どこに居るの?
我が家は必ず8月15日に、自宅にお寺さんをお呼びしてお経を唱えてもらいますが
お経を唱えてもらっている間、眼を閉じながらいたずらに自問自答します。
「今、ここに仏さんに対してお経を唱えているなら、お墓は留守か」
「迎え入れして、送り出ししたら、仏壇もお墓も普段は仏さんは留守か」
「あの世に旅立たれたなら、普段はお墓や仏壇には、仏さんは居ないのか」
「じゃ、仏壇の魂抜きとか魂入れという儀式はなんなのか」
「キリスト教やイスラム教がキリストに祈りをささげるように、仏教徒は仏前で釈迦に祈りをささげなくてもよいのか」
毎年、こんな仏教の教えに対する疑念を抱きながらもお寺さんをお呼びしてます。
ひとつのセレモニーとして。
令和元年のこの夏も仏教徒でもない私は親から引き継いだ風習を大切に守りました。
しかし、所詮、盆と正月だけの似非門徒なので、しきたり準備は後手後手です。
仏前のお供え物を買い忘れるとこもしばしば。
お寺さんが来られる前にと近隣スーパーに駆け込むと、まだ開店前。
「え! 開くの十時か」
追伸
古典的なダジャレで締めてゴメンナサイ。
でも一応ノンフィクションです。
お墓の在り方に少しでも疑念を得た方は下記本をお勧めします。
「お坊さんが困る仏教の話」著者:村井幸三(新潮新書)